| 4年めの『仮面』(06年ジャパンオープン観戦記・コンペ篇) 〜さいたま発・美緒さん報告〜 ジャパン・オープンが終わり、ガラ・エキシビジョンがはじまるまで、小一時間。
いったん会場の外に出た私は、無意識のうちに、実家の母に電話をかけた。 「どうだった? ヤグディンは」母は訊いた。 「技術だけを4年前と比べたら、そりゃあ、ぜんぜんダメだったよ」 「ええっ? そうなの? がっかりね……」 「ううん・・・・・・思ったよりずっとよかったってことに、びっくりしてるの。 トリプル・フリップの3−3を跳んだのよ!」 1ヶ月たった今も、コンペを見終った後の、この会話を思い出す。 私はどうしても、あの満足感と、爽快感を、だれかに伝えたかったのかもしれない。 ******************************************* コンペの「仮面」は、どうヒイキ目に見ても、よくできた演技ではなかった。 スピードは、現役選手とは別次元の遅さだった。 エッジの深いすべりはさすがに美しく、スケーティングのうまさは際立っていたけれど。 彼の持ち味である、身体の内側からにじみ出るような音楽表現や、パフォーマンスも、後半は色あせて見えた。(疲れからか?) 4年前のソルトレイク・シーズンと比べたら、ずいぶん筋肉がついて幅の出た身体に、「仮面の男」衣装は、ちょっとミスマッチだったかもしれない。 成熟した魅力ある女性が、成人式に着た振袖をひっぱり出して着てみたかのような、気恥ずかしさすら感じた。 4年前の面影を残しつつ、でも、全くちがう「仮面の男」。 見る人によっては、痛々しく感じたであろう「仮面の男」。 ……それでも、私をがっかりはさせなかった「仮面の男」だった。 今回、「仮面」を滑るらしい―という情報をネット上でキャッチしたのは、本番当日の2日前。 「グラディエーター」だと聞いてたのに、なぜ? という疑問がわきあがる。 「グラの衣装はもう入らないんじゃないの?」と、揶揄するような書きこみも見つけた。 (でも、当日見てみないと、わからないんだから…) そう自分にいい聞かせつつ、会場へ向かった。 (点数が出ないことは、覚悟の上― だって、かれは6種類のジャンプが、いまは跳べないのだから― 世界一美しかったトリプルアクセルは、もう見られないのだから― では、いったい、どうやって戦うのか?― いいや、ステップなら、加点が期待できるかもしれない―) さいたまスーパーアリーナに向かう電車の中、そんな自問自答をくりかえしていた。 冷静に考えたら馬鹿みたいだ。 私はアレクセイ・ヤグディンの人生とは全く無関係な人間だし、彼とは知り合いでもなんでもない。 それでも、これほどまでに葛藤する。 彼のスケートが、私に与えた影響の大きさに、今さらながら気づかされた。 そして……その時は近づいてきた。 リンク上で、6分間のウォームアップ・タイムが始まった。 夢にまで見た、ヤグディンが滑るリンクでの、6分間。 私の眼は、当然、彼だけを追う。 他の選手が、次々とジャンプを跳び、その感触をたしかめる中、 ヤグディンは、脚のつけねをかばうように、ゆっくりゆっくり、リンクを周回しはじめた。 アマ引退の原因となった、いまも痛みが引かないはずの、その脚のつけねを。 滑りながらヤグディンは、リンク正面の観客に向かって、両手を上げた。 滑り終えたあと、観客に拍手を求める、いつものポーズ。 そう……両手を下から上にすーっとあげる、あの動作。 ヤグディンは、それを東西南北、すべての観客席に向かって、やってのけたのだ。 (みんな、今日は盛り上げてくれよ! 僕も一生懸命やるけど、他の選手もみんなベストを尽くすからね!) 彼の、そんな声なき声が聴こえてきそうな、パフォーマンスだった。 もちろん、観客は大喜び。そして、喝采していた。 でも……その時、私は悟った。 彼は、このコンペで高得点をとる気はさらさらないんだ、と。 この時間に、ジャンプの練習をしないということは、脚の調子がそうとう悪いのだろうか? それとも、本番でしっかり跳ぶために、今はセーブしてるのか? いずれにしても、彼は高い技術ではない要素で勝負しようと、せいいっぱい観客サービスすることに徹しようと決めたんだ、と……。 そんな中。 「仮面の男」の、あのドラマチックなイントロが、しずかに始まった。 何度も何度も、私の部屋のビデオの中、くりかえし演じられた「仮面の男」。 最初の立ちポーズをとった時は、まるで時間が逆戻りしたかのようだった― しかし、滑り始めた瞬間、4年の間に彼の身におきたことすべてが、現実となってのしかかってきた…… ……練習時間に感じた予感は、ほぼ的中した。 ソルトレイクで演じられた「仮面」と、いま、目の前に繰り広げられている「仮面」は、似て非なるもの。 そんなことは、彼自身が一番よくわかっているだろう。 その表情を見れば、誰にだって、わかるはずだ。 だけど……跳んでる! トリプル・フリップだ! しかもコンビネーションで! ここ数年、跳んでなかったはずなのに! 次はサルコウ! エッジジャンプは、脚に負担がかかるから無理だと、どこかの記事で読んだのに! スピン・コンビネーションは、4年前より複雑になってる。チェンジ・エッジしてるもの。 そうか、音楽のつなぎを変えたのは、これのためだったのか……。 ステップは、変わってない。あの懐かしい「仮面」のステップだ! ちょっとスピードは足りないけど、氷を削る、余計な音がしていない。 いいぞ! 頑張れー!! あっという間の、4分半の演技が終った。 あの日の映像は今でも、暗い画面の中にスポットが当たったようにしか、思い出せない。 ただひたすら押し黙り、息を殺して、見まもった4分半。 すべてが終った時、私は立ち上がり、思いっきり拍手をしていた。 やはり静かに見ていた、近くの席の女性も、私と同じように立ち上がり、何度も「うん、うん」とうなずきながら、拍手をしていた。 彼女は、どんな思いだったのだろうか? 滑り終えたヤグディンは、疲れきっていたようだったけど、アイス・ショーでは見せたことのない笑顔で、顔をいっぱいにしてリンクの中央に立っていた。 彼はどんな思いで、あの4分半を滑りきったのだろう? そして、どんな思いで、トリプル・サルコウを跳びなおしたんだろう? アクセルが入ってないんだから、最後のサルコウは、カウントされないはずなのに……。 (……これが、今の僕の、パーソナル・ベストだからだよ) 彼ならきっと、そう答えると思う。 カウントされようが、されまいが、今の自分にできる、最大限のことをする。 むかしから、彼はそういう選手だったんだもの……。 (→後半「ガラ篇」につづく)
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