そのとき。そこで。
そうなんだ、なにかが起きたんだ。
だれも、ぼく自身さえ気づかぬほどさりげなく、けど決定的な、なにかが。
あなたはぼくを失くしかけてる。ぼくは、あなたに失くされかけてる。
そんな重大なことなのに、この場にいる誰もが、そのことにまったく気づいてないなんて。
ぼくだけがそれを知り、動揺するでもなく、どこかでもう決まってしまったことを言いわたされでもしたように、ああそうか、と空虚ななかで納得してしまってる。
いったいなにが起きた。どこで、いつ、なにが? ぼくにいったいなにが起きたんだ。
なにか言われた。ありふれた、聞きなれたことばを、あなたはいつものようにきびしく、吐き棄てたのだった。いつものように痛みがひくまでじっと耐えるでもなく、突然ぼくは、なにかの終りがきたとひらめいた。悟った。
いつもとなにも変っちゃいなかった。なにか特別なことがあったわけじゃないんだ。だが、音もなく予兆すらなく、とにかくそこには、終りがあった。ざわめきと、汗と、冷気と、飛び散る氷片、人ごみのなか、なぜかぼくだけがそのことを知っていた。
(そうなんだよアレクセイ)どこか高みから声がした。
(たったいま、終ったんだ)
(ああ……やはりそうでしたか)ぼくは答えた。
(お前はそれを待っていた。ずうっと待っていたのだろう?)
(ええ……たしかに。待ってはいましたが……)
(認めたくないのか。それとも、思っていたほどいいものではなかったか?)
(……どうなんだろう?)
たしかに認めたくはなかった。いっそ、そうなってしまえ、とあんなにも願いながらも。もしかしたら、とっくにもう、ぼくの中では終ってたのかもしれないのに。
(……よくわかりません)けっきょく、ぼくは答えた。
(自分の気持なのに、自分のものじゃないみたいで。なんていうかな、麻痺したみたいで……)
(もう、終った。お前はすでにそれを知ったのだよ。だから)
(……)
(行きなさい、アレクセイ)
しずかに、だがきびしい声がさいごに、ぼくに命じた。
はい、と答えたかった。が、そのただ一言を答える気力さえ、そのときのぼくにはなかったんだ。
そうなんだ。
どうやら、なにかが起こってしまったらしい。
わたしも、あの子自身さえも気づかぬうちに、さりげなく、だが決定的な、なにかが。
ふりむいた瞬間、それはもう、そこにあった。
なにか特別なことが起きたわけではない。音もなく予兆もなく、とにかくそこにはそれがあった。いつもと変らぬざわめき、汗、冷気、飛び散る氷片、人ごみ……氷上に散らばって練習をくりかえす、わたしの生徒たち。
目の前にはいつもながら器用に、達者に跳ぶジェーニャがいて、わたしは思わず目を細めてそれを見ていた。そして背後にはいつものように、苦手なフリップをむきになって、だが不器用そうに、懲りもせず同じまちがいをくりかえすあの子の気配があって。その少しまえ、いつものようにわたしはなにか言い棄てて、あの子に背を向けた。それこそ何百回とくりかえした、口癖のようなことばで。
なんと言ったんだっけ?……
ふと気配に気づき、わたしはふりかえった。両手をだらりと下げ、あの子がぼんやりそこに立って、疲れた顔で、だまってこちらを見ていた。
(なにをぼさっと突っ立ってる、できるまで練習をつづけろ!)
いつもならそう怒鳴りつけるところだ。が、なにかが、それをさせなかった。
以前から、ときにふと、おどろくほど大人びた顔をする子ではあった。童顔のジェーニャとちがい、もともとの顔の造作のせいもあろうか。淀みながら同時に澄んでもいる深い淵のような、大きな眼が、栗毛の前髪の奥から、こちらを見ていた。なにか訴えたそうな、悲痛な気配がその瞬間、全身からたちのぼるようだった……が、それは、すぐに消えた。
(なんだ?)
と、言うか言わぬかのうちに、ぼそりと、あの子がなにかを口にした。
なんだった? なにか、とてもありふれた一言。さりげなく、だが決定的な、たった一言を。
それを言い棄てるや、あの子はこちらに背を向け、そしてしずかに滑りながら去っていったのだった。
立ち尽くしていたその場から、あの子が練習場の扉を開けて出ていくまで、声をかけて止めるでもなく、わたしは見ていた。時間にして三分くらいだったろうか。
歩み去るあの子の前方に、なにか新しいものが出迎えるかのように、横たわっていた。さかまき、真白に飛び散る波がしらと、その先の水平線にひろがる、はるか新世界の、地平の影と……わたしはそのときすでに、なにか巨きなものがあの子を連れてゆこうとしているのを、わたしの手から奪い去ろうとしているのを、知っていたのではなかったか?
瞬時、強い衝動がたしかに、わたしを内から押した。いま声をかければ、あの子がふりかえれば、まだ間に合うのではないか、流れを止めるか、すくなくとも遅らすことはできるのでは……が、そのときジェーニャが、なにも知らずに、わたしを呼んだ。
(あのう、いまのところのシークエンスは、いまみたいな入りかたでいいんでしょうか。どう思われます?)
ふとわれに返り、その声にふりかえると、ざわめき、汗、冷気、生徒たち、周囲のすべてがいっせいに戻ってきた。あわててふたたび眼をやったがもうあの子のすがたは見えず、ほとんど閉まりかけている扉を、わたしは見た。完全に閉まってしまうまで、ただ、見ていた。
(かれはどこへ行ったんです?)ジェーニャがむじゃきに、訊いた。
(…………どこへだろう?)
しばらく沈黙したあと、わたしは答えた。きっと、あの子自身も知らないだろう。いまは、まだ。
わたしはため息をつき、どれ、もう一度やってみろ、とジェーニャに命じた。
そのときは、ぼく自身もまた、ぼくを失くしていた。
迷子になったぼくを探すように、あてもなくひたすら、ぼくは歩いた。
ああそうだ。歩いてるうちに思い出した。……あのとき、あなたはぼくにこう言ったんだった。
(……もう、いい)と。
もういいアリョーシャ、今日はもう上がれ。もういい、お前には無理だ。もういい、お前なぞは良いスケーターにはなれない。なれない。なれないなれないなれない……ああいったい、何十度、何百度この耳でぼくはそれを聞いたことだろう。
なのになぜ、あのときにかぎってその一言が、決定的になってしまった? ぼくのなかで何かがこわれ、ぼくは、居場所を失くしたことを知った。どんなにがんばっても、ここにぼくの居場所はないと、悟ってしまったのだった。
(行きなさい)と声は言ったが、どこへ。いったいどこへです?
思わず、またあの声が落ちてはこないかと、空を見上げた。おだやかで、柔らかで、一日じゅう地平から立ち去ろうとしない陽射し。はじめて海外へ行ったとき、頭上から首すじへカッと照りつけてくる直射日光の強さに驚いたものだった。あれほどまでに容赦ない光は、この国にはない。夏のまっ盛りでさえもだ。
この淡く、貴重な、光……スケーターたちにとってはオフ・シーズンを意味する、来シーズンについてあれこれ考えるべきとき、この国の、この季節の、いつもの顔だった。
ぼく一人をおきざりに、すべてが腹立たしいほどいつもどおり、忙しげに動いていた。たぶんもう少しすれば、こうして歩き回るうちに腹でも空いて、どこかスタローバヤ(簡易食堂)で軽くなにか喰べて、そうしたら、つぎにどうしたらいいか、きっかけぐらいは思いつくだろうと思った。が、朝からなにも腹に入れてなかったのに、食欲はいっこうにわかず、からっぽの胃と心をかかえて、ぼくはひたすら、うろうろ歩き回った。
もし……だれか知り合いにでも行き合って(やあアリョーシャ、何してんだい。どこ行くの?)とでも一声かけてくれたら、またちがった展開もあったろう。とりあえずぼくは笑いかえし、笑ったことで気分もほぐれて、
(いや、またコーチとぶつかっちゃってさ……)
(なんだ、またかい。元気出せって。がんばれよ)
ちょっと立ち話でもして、よくあるいっときの気の迷いと、そんな気分をごまかすことだって出来たかもしれないのに。だれだってよかった。いちばんきらいな奴でさえ、よかったんだ。ぼくはさびしく、どうしようもなくさびしかったんだが、そんなときにかぎって、だれとも行き会うことはなかった。
ぼくの友だちはどこにもいないようで、ぼく自身もどこにもいないようで、うす暗い街かどを、ぼくは歩いた。早く、もっと暗く、宵闇がたちこめてくれないか。世界が、いまのぼくの気分にふさわしい色に、早くなってくれないかと願いながら。だがこの国の夏は、いつまでたっても地平にうすあかるい光を残したままで、ひたすら、ぼくは歩いて歩いて、歩いて、そして歩いた。
終りはもう来た。失くすのは、これからなんだ。たったいまから殴られようとする人のように、ぼくの魂は身がまえた。……が、そのときはまだ、ぼくの生まれた国までも失くさなくてはならないとまでは、考えてもみなかったが。
ああそうだ。あの子はこう言ったのだ。あの眼で、あの疲れた顔で。
(ええ……もう、いいです)と。
もういいです、また明日やってみます。もういいです今日は帰ります、上がっていいですか。もういいです判ってます。もういいですもういいもうああ何十度何百度わたしはこの耳であの声を、聞いたことだろう。
あの子は率直で気ままで、すぐ、すねたり、ふてくされたりする子だった。自分で自分の、のみこみの悪さにじれてる気配もあった。だが、出来るまで徹底的にやろうとする子でもあった。もういいです、そう口にしながら、これでいいと思っていたことなぞ、おそらく一度もなかったろう。そういう意味では、わたしはあの子を信頼していた。が、やはりつい怒鳴ってしまうのだ……もういい、と。もういいアリョーシャ、今日は上がれ……。
ああそうだ。わたしはあの直前、こう言ったのだった。
(もう、いい!)と。いつものように。
同時に、はっと気づいた。わたしが(もういい)とあの子に言ったとき、あの子のほうもまた(もういいです)と答えたことは、これまで一度もなかった、と。
(いえ、もう少しやってみます。もう一度だけやらせてください。お願いします!)
それがいつもの、あの子の答ではなかったか?
……もういい、とわたしが言い。
……ええ、もういいです、とあの子が答えた。
おたがい口癖のようないつものセリフが、いつもとちがった組み合わせだというだけで、こんなにも決定的な意味を持ってしまったのだ……!
雷に撃たれたようで、思わずどこへともなく一歩、踏み出しそうになった。そのとき、誰かがわたしに声をかけた。
(どちらへ……?)
そうだ、どこへ行こうというのだ。あの子を探しに、いまなら、まだ、かろうじてわたしのものである、あの子を探しにか。……どこへ?
気配は、あった。そんな話は、すでに出ていた。
あの子は、あの齢にしてすでに一家を支える家長らしい冷静さで、わたしとの間の金銭的借りを、清算したいと申し出たのだ。そのためにかなり無理な金策をしたかも知れなかったが、それについては訊かなかった。
それは、いつでもあなたのもとを離れる覚悟ができました、という決意表明だった。
が、あの子はまだ、その決定的な一言を口にしなかった……否、できなかったのか。次の行き先がまだはっきり決まっていなかったか。あるいは、海を越えてゆくほどの覚悟ができていなかったか、置いていく家族への想いを断ちきれずにいたか……自信を持って断言できるが、どのみちこの国では、ここ以上のよい施設も、わたし以上の実績あるコーチも、見つかるはずはないからだ。
わたしは金の受取を書き、経済的意味でのわたしたちの関係は、そこで終った。
うつろな眼で、あの子は自分の足元ばかり見つめていた。そんなあの子に向かって、きっぱりと、わたしは言った。「ここに残ってくれ、とお願いするつもりは、ないよ」
唇を噛み、わずかにあの子はうなずいた。あえて他人行儀な口調で、さらにわたしは、つづけた。
「アレクセイ=コンスタンチノヴィッチ、きみの人生なのだから……」
聞くなり眼を伏せ、唇を噛んだままあの子は、何度もうなずいた。そして、おざなりな礼をしてから、部屋を出ていった。その間、あの子はとうとう、わたしの眼を一度も見ようとしなかったな、と気づいたのは、そのときだった。
かんしゃく持ちで、我が強く、がんこで、自信家で、気持の浮き沈みがはげしく、内心をすぐ言葉にも態度にも出してしまい、いったん納得すれば努力はおしまないが、納得しないうちはテコでも動かない。つまり、似た者どうしなのだ。まるで、ほんものの父子のようにだ……アレクセイ、そういえばおなじ名を持っているのだったな、あの子と、わたしは。
それゆえの、はげしいぶつかり合いや口論は、数えきれぬほどあった。張り倒したことさえ、一度や二度ではない。そばで見ていたジェーニャが顔色変えておびえるほどの……ぼくには、できない。ぼくにはここまで踏みこめないし、踏みこんで来てももらえないんだ。ジェーニャのおびえた眼は、いつもそう言っていた。
ジェーニャは素直だった。あの子とおなじやり方で、わたしの関心は引けない。ちがうやり方でいくしかないと、心に決めたようだった。それは、ことあるごとに父と対立しては道をはずれてゆく兄を見守る弟が、いやおうなく模範的な孝行息子に育ってゆくのに、似ていた。
そして練習、練習練習。このぼくを見てください。ぼくの体の柔らかさを、幼い日から背中の痛みに耐えながら母と練習してきた、女子並みのビールマン・スピンを。その形のまま滑る、美しいスパイラルを。鋭く、回転の速いジャンプを。ぼくの才能を、ぼくの実力を、空気を斬り裂くぼくの動きを、手を、脚を、ぼくのすべてを。ねえぼくは才能あるでしょう? ぼくは上手でしょう? 見事でしょう? あなたの誇りにしてくれますか。もっともっと上達したら、あなたはもっともっと、ぼくだけ見ててくれますか。
ほかの誰より……かれより、ぼくを、いつも。
そんな想いが前面に出すぎてしまうのが、じつは、お前の最大の欠点なのだがな……大切な、我が宝石、わたしのジェーニャよ?
あのとき……すぐそこにたたずんでいたあの子の、反抗的で、疲れた、そしてもう答を出してしまった、大人びた顔を思い出した。決定的な啓示はすでにあのとき、そこに降されていた。あの子自身も気づかぬうちに、なにかがもう、どこか遠くで決まってしまっていたのだ。あれは、そういう顔だった。流れに逆らうことなど出来ようか?
(あの、クワドルトゥの着地ですが、こんな感じでいいでしょうか……?)
軽々と、あざやかに、ジェーニャが跳んでみせた。速く、高く、美しい放物線を見る者の眼に残し、危なげない着地、文句のつけようがない。空恐ろしいほどの才能あふれる最優等生。遠からず、世界はこの子のものとなろう。実の父と生き別れた、さびしがり屋のあの子がすねるのを百も承知で、わたしはこの子の指導にばかり熱中してきたのではなかったか。わたしの最大の財産はいまここに、目の前にある。たしかにそう思えた……それも真実ではあるとは思えたが、反面、むなしさはごまかしようもなかった。
馬鹿げてる。どこへ行くという? おまえだけが頼りの親族たちを、祖母を、母を置いてか。いったいどこへ行くという、アリョーシャ?
だが行ってしまう、否、行ってしまった。あの永遠とも思える数瞬のなか、わたしはすでにそのことを知っていた。腕をつかんで引き戻し、殴ってでも引きとめるなら、あのときしかなかったのに。あの瞬間でさえわたしは、そのことをちゃんと知っていたというのに。
ずいぶん背が伸びた。ああそうだ、あの後ろすがたを見て、わたしはふとそう思ったのだった。……急に、ずいぶん背が伸びた。肩が張り、いずれ大人の男の、広い肩幅となってゆく気配がたしかに、そこにあった。
早いものだ、ここへはじめて連れてこられたころは、まだわたしを見上げて話したものだったのにな……栗毛で、はじけそうに元気で、返事のいい、明るい大きな眼の……。
ふいに鮮烈な記憶の映像が、感情の波が、はげしく突き上げてこようとするのを、わたしは必死で押さえつけた。もう、いい! と、おのれに向かって反射的に吐き棄てたひとりごとを、ジェーニャが聞きとがめた。
(もう、上がっていいんですか?)
……ああ、もういい。力なくいま一度わたしは答え、今日はずいぶん早いんだなあ、とつぶやきつつ、ジェーニャはずうっと向うへと滑っていった。
終りとは、別れとは、こんなふうにしずかに、さりげない形でやってくるものだったか。
街じゅうを、あの子の名を呼びながら狂おしく駆けまわり、さがしまわる自分のすがたをほんのしばし想像して、わたしはちょっと苦笑し、それから、練習場を出た。
いつもよりほんの少しだけ時間をかけ、思いをこめ、あの子も閉めていったあの扉を閉め、……窓から、戸外を眺めやった。
あの子はここから出ていった、歩いていった、新しい世界へ。新しい人脈、新しい故郷、新しい苦悩と歓喜と栄光の待つだろう、新しい未来へ。
だが、このわたしは……?
わたしは歩き出した。ひとつの世界の終りが来てしまったことを、わたしとあの子以外はまだ誰も知らずにいる、くりかえしの日々に退屈しきった、いつもの日常へ。
いつもの歩幅で。
『Canon 〜180秒の永遠〜』(了)
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