キス−キスTOPへあの日、ソルトレイクのアイス・リンクの上には、1人の若き王がいた。
かれは、たしかに王だった。・・あらゆる意味において。
みずから剣をとり、自由を勝ちとる、闘う王者だった。私は、見た。
王を見た
〜渡米後のヤグディンの、演技・衣装に見る「二面性」について〜

98−99、ヤグディンの渡米後さいしょのSP『サーカス・ミュージック』。
この衣装は、体の前面がピエロの笑顔、うしろは泣き顔になっている。
オモテとウラ、わかりやすい「二面性」である。まずは「挑戦」というところか。

とはいえ私としては、このプログラム自体に、ピエロの「二面性」はあまり感じない。
ジャグラー、怪力自慢の大男、そしてコミカルなピエロ・・と、むしろサーカスの多様さを表現してたように思う。
それも現実のサーカスというより、「明日サーカスに連れてってあげるね」と親に言われた子どもが、ワクワクしながらベッドの中で想像してる、空想のサーカス、というような印象がある。
音楽のよさもあり、はなやかさとウラハラのわびしさ、というサーカス特有の「二面性」は感じるが・・。
(ピエロの陽気さと、うらはらの独特なブキミさという「二面性」は、じつはクリムキンのFP『ペトルーシュカ』に、より強く感じた。こっちは、現実のピエロという印象だった)



99−00シーズンとなると、衣装・プログラムともに、「二面性」どころか、多様すぎる印象。
SP『くるみ割り』の衣装は、ト音記号の黒のと、いろんな楽器アップリケのみどり色のと2種ある。(さらに楽器のほうの衣装のスソがびみょうにちがう時があるのは、手直ししたのか?)
演技そのものも、さまざまな楽器の、多様な音色がテーマだった。
FPにいたっては『ブロークン・アロウ』『トスカ』、プログラムそのものが2種あったりする。
よくいえば「あまりにも意欲的」、悪くいえば「分裂・混乱」が、このシーズンの印象。



その次の00−01シーズン、FP『グラディエイター』衣装は、横から見ると、右側からと、左側からとだと、印象がまったくちがう。右から見ると、きらびやかなローマ式の軍服。左から見ると、透けてる部分が多く、筋肉の線を強調したような胸元のアクセントや、肩のトゲトゲ飾りが目につく、剣闘士。
つまり、右半身と左半身、という「二面性」となる。

 右側・・剣をにぎる側=『グラディエイター』主人公マキシマスの、前半生である「ローマの将軍」
 左側・・楯を持つ側・心臓の側・結婚指輪をする側=後半生である「剣闘士」

そんな深読みもしてみたくなる。
(こう考えると、両手にそれぞれ1本ずつナイフを持ち、地に倒れふしたあと復活するEX『ナイフを持つグラディエイター』の演技が、より暗示的に見えてはこないか? ちなみに、グラディアトルの語源は「短剣・または短剣で闘う人」だそうだ)
マキシマスというのがそんな2つの立場をもつ生涯を生きた男であり、どちらも真実のすがた、という印象である。背後に泣き顔をかくして笑顔をふりまくピエロのような、オモテとウラ、ではない。
演技もまた、情緒的でしずかな前半、戦士のはげしい闘いを表現した後半と、イメージをはっきり演じ分けている。
これは故郷の麦畑で妻子とともに平和に暮らす「農夫」としての、ほんらいのマキシマスと、戦場で、あるいは闘技場で「闘う男」としてのマキシマスの「二面性」、という見方もできよう。

同季のSP『革命』の衣装も、赤と黒の部分が、ほぼ体の左右で分かれている。
革命というのも考えてみれば、帝制と共和制との闘いだし、このシーズンのイメージは「葛藤(かっとう)」だろうか。
相反するもの同士のせめぎ合い、けっして混じり合うことがないのに同居し、ぶつかり合う、異なった価値観、とでもいうか。



そして01−02シーズンのFP『仮面の男』で、劇的な変化がおとずれる。
まずテーマそのものが「囚人=王」という「二面性」そのもののような存在。
だが衣装は、ただ囚人の鉄仮面を見せるのみ、ここへきて衣装では「二面性」を訴えない。そのかわり、演技そのものがこんどは「二面性」を交互に、くっきり演じ分ける。
つまり「救い出される側=囚人」と、「救い出す側=銃士」との。それは音楽の変りめ、顔の前で広げた両手をパッパッと振る動作で切り替えられる。これは、いわば「幕間」の役割をはたす。
仮面をかぶせられた囚人であるあいだは、ずっと無表情で、一度だけせつなそうに手で顔をおおい、ゆがめたのみだった彼は、この「幕間」で一瞬にして開放的になる。忠誠心あふれる、闘う銃士の顔となる。
囚人は救い出され、仮面を脱ぎすてて微笑し、キスを投げ、自由を謳歌する。
が、彼がのちに王となることは、原作や映画の基礎知識がないと、観客は知ることができない。このあたりが、あのミーシンに「サントラを使って、表現を映画のイメージにたよっている」とか言わせたゆえんなのだろうが。
じじつヤグディンは、ここでは敢えて「王」を演じようとはしていないのである。

だが、たしかに「王を見た」という余韻がのこるのは、なぜだろう?
その印象ははなにより、ヤグディン本人のもつ、威厳にあったように思う。あの黒と渋いブロンズの衣装、ピンと伸びた背筋と脚に、たしかに「王を見た」からこそ、私はソルトレイクで魅せられたのではなかったか?・・
かれが演じなければ、あのプログラムはただの「救い出される仮面の囚人と、闘う銃士たち」、つまり、そこにあるものしか見せることのできないものになってしまっていたろう。
私はたしかに、見たのだ。あの威厳、あの憂い、鉄の仮面に封じられながらも、その奥にたしかに息づいていたもの、王となるべく生まれついた人を。
ミーシンはたぶん、それを見ることができなかったか、見ようとしなかったか、あるいは見たのに認めようとしないかの、どれかであると思われる。

現王の双児の弟という、高貴な血筋に生まれ、それゆえ罪もないのに囚人とされた存在。彼を演じきることこそ「王」を演じることにつながる。なぜならその高貴さあってこそ、かれはいずれ王となることが約束されているから。
ヤグディンが演じたのは、そんな「威厳ある囚人」であり、「将来の王」の暗示のみだった。いま王座にある、暴君である兄のほうでは、けっしてない。「おなじ顔を持つ、暴君の兄と、封印された存在の弟」という形での「二面性」では、なかったのである。
こんなふうに書くのは、だれとは言わないが某解説者で「ヤグージンのは悪い王、本田の『仮面』は善い王」なんて言ってた人がいたから。以上の理由で、私にはけっしてそうは思えなかった。

さらに言えば、しずかに顔をゆがめて絶望していた囚人の上に、するすると垂らされてきたロープは「救い・解放」の象徴だろう。しかしつぎの瞬間、そのロープは囚人の首に巻きつき、囚人は死体のように脚を伸ばした形でロープに吊られてぐるぐる回る。これはあきらかに「死・抹殺」の象徴ととれる。
つまり、自由と同時に、外の世界のやっかいごともまた押し寄せてくる。福音と、受難が、ともにおとずれる、とでもいうか。これもまた「二面性」ととらえることが可能であろう。
頭上から降ろされてくる、救いのロープ。それは、どん底にいる彼への、「地上・彼が本来いるべき場所」からの救いの手か、あるいは、さらに上・・「天・宿命」とみることも、また可能。その気になれば、いくらでも深読みできる。
基礎知識など、いっそなくともよい。表現されているものをしっかり見る眼と、想像力さえあれば。そしてもっと深く知りたい興味がわいたら、原作なり、映画なりに進めばよいのだから。

ノーミスの完璧な演技で金メダルを獲得したこと、しかも男子フィギュア史上初の満点4つ獲得で、さらに威厳は増した。「王者ヤグディン」という形容がついてまわるのは、当然といえる。わざわざ五輪シーズンに、本人の威厳なくば成立しない、こんなテーマを選んだとすれば、なんという挑戦的な企画・・!

ここへきて「二面性」なんてことばが単純すぎると思えてくるほど、『仮面』は複雑な表現をもつプログラムであった。
おもちゃ箱にあれこれ楽しくつめこんでいくような『サーカス』の(ある意味では雑多な)多様さから成長し、見せるべきものを選んで、はっきり演じ分け、さらにじっさいは演じなかったものさえ感じさせてしまう、おそらくヤグディンにしか出来ない、深い、多様さなのだった。
このシーズンのイメージは、敬意をこめて「多様さの統合、勝利」としたい。
すなおにそれを見ることのできる者は、さいわいなるかな。

追記:
01−02シーズンはSP『ウインター』もまた、雪と風のやわらかさと怖ろしさを、冬樹と雪をあらわす衣装で演じた、ユニークな演技だったが、これについては別ページ(『雪・ふりつむ』)でいっぱい書いたので、そちらを参照。
(了)

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