キス−キスTOPへ2分50秒間だけ、われわれの前にあらわれる、冬の妖精王。
羽毛のごとくかろやかにして、ひたひたと重く。
かれの背後にうずくまりしは、極北の、厳寒期の、息づまるような、白き闇。
雪、降りつむ
〜『ウインター』における「腕の演技」が意味するもの〜

ヤグディンのSP『ウインター』という演技は、脚もと……つまりストレートライン・ステップの華やかさにばかり眼をうばわれてると、腕の演技を、つい見おとしてしまいがちになる。

前半、音楽がゆっくりしたテンポの、単独の弦音のみのあたりは、まずフィギュアスケート特有の、規定ジャンプをこなしてしまいたい関係もあるんだろうが、腕の演技はほとんどあらわれない。わずかに、片手でと、両手で1回ずつ、ふわりとした動きで手のひらを上に向け、ふりはじめの淡い雪を表現する。かろやかな序奏。
さいしょのスピンあたりで、いかにも電子音楽っぽいこまかい音に変化したあと、ジャッジ席前でのアピール、2度めの“氷投げ”が終ったころ。
きゅうに曲のテンポも速まり、音の厚みも増し、曲のスケールが大きくなる……と同時に、ヤグディンの演技そのものも活発に動きだす。スピンではない“回転”が、片腕を上げた形、全身での旋回、いくつもの円を、空中に、氷上に描きだしながら、息つくヒマもなくつづく。
ここでいっきに動き出すのは腕ばかりではなく、脚も、全身もなんだけど、ことに腕の動きはするどく、力強くなる。はげしく吹きつける、横なぐりの吹雪と、虎落笛(もがりぶえ:真冬にこがらしが電線を吹きぬける時なんかにヒューッと高く鳴る、アレのことです)の情景となる。
「風」を表現することで「雪」の性質が変わる。降りしきる雪の粒の大きさまで、変わったように感じられる。

そして、ひとしきり荒れくるった風と、雪のあと、さいごのストレートライン・ステップとなる。
このあたりの腕の動きの「重さ」を見よ。
ここまで来ると、腕の演技は「風」を表現しない。あれは、降りつもった雪の量の「多さ」「重さ」の表現なのである。
つまさきのエッジでの回転で、大・小の円を描く形をはさみ、腕の動きはすこしずつ重さをくわえながら、さいごに、下から上へと、いかにも重たげに持ち上げられる両腕の動きで、最大の重みを表現する。
そして、ラストのスピン、3回目の「氷投げ」でフィニッシュ、となるのだが……。

高速のストレートライン・ステップや、中盤の、いくつも氷上や空中に描かれる円の軌跡の美しさだけ見るなら、『ウインター』は軽快で、北国の冬の豪雪のもつ、むごい、容赦ない側面を見せない、美しい幻想でしかない。
さる評論家は「欲をいえば、前シーズンSP『革命』のような重厚さが欲しい」とのたまったし、私は「何言ってんの。『ウインター』は明らかに軽快さをねらってるし、だからこそいいんじゃないの!」と思ってたんだが。

腕の演技に注目してみると「雪」はしっかりと、無言の圧力で、ふりしきり、ふりつもり、刻々と重さを増し、何もかも埋めつくし、凍死、ときには圧死さえさせてしまうようなシロモノなのだった。
ひたすら、しんしんと、いつのまにか、こんなに……じっさい、雪ってそういうものじゃないか?
ただの軽快さでも、あるいは、ただの重厚さでもない。“氷投げ”のアイディアの面白さだけの演技でもない。
いわばそれは、いたいたしい実感を消し去った「雪=冬の、負の側面」の表現。これを『ウインター』ならではの、さりげない重厚さと見ることもできよう。

極北ロシアの冬。広大なシベリアの国土をおおう永久凍土。ナポレオン、ヒトラーの進軍をはばんだ、冬将軍の君臨。長い冬のあいだの食糧をもとめて、あらゆる方面に、国境の向こうの他国に、海の向こうに、触手を伸ばさずにいられなかった風土……。

そこまで考えおよんでもいいし、否、なにもそこまで妄想をめぐらさなくとも、ヤグディンの『ウインター』での腕の演技は、さりげなく雪の重みを表現してたんだ、と思うだけでも充分である。
そんな北国の冬のイメージをほんのちょっと、かくし味にしてたのね、と思うだけでも、充分に。
そんなふうに解釈しても、まったくのカン違いではないと思うのですが、いかが?
(以上)

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